日曜日の朝、京都山科から大津までの小関越えを歩いてきました。
山科駅を8時前にスタート。
三条通(旧東海道)を東へ歩きます。普段は大津方面からの車でいっぱいですが、さすがに日曜日の朝は車も少なく、わりとのんびり歩けました。
京阪四宮駅前を越えてしばらくあるくと、小さな水路?を渡ります。
反対側から見ると水路の東側に「京都市」の看板。ここが京都市と大津市の市境、京都府と滋賀県の府県境、山城国と近江国の国境、ということになります。
こんな細い水路で、しかも看板の位置からすると、水路の真ん中ではなく端が境になっているのはどうしてなんでしょうね。地形的には完全に山科盆地の東端に位置しているわけですが…。
もう少し東にあるくと、旧東海道から北に分かれる道の角に「三井寺観音道」の道標があります。文政5年(1822年)定飛脚問屋山中三店が建立したものだとか。側面には小関越の文字もありました。
この道が京都から三井寺に参拝する、もっとも近い経路になるのですが、このあたりは山科盆地の東端であると同時に、比叡山地の西側の斜面とも言えます。もしかしたら、このあたりは大きな勢力を持った三井寺の領地や荘園だったのかもしれません。そのため、このあたりは近江国の領地だったのかも…。
この古い道は細く、くねくねと曲がっています。京阪電車の踏切を越えて、さらに北上すると東海道線と湖西線のトンネルが見えてきます。
複々線の東海道線のトンネルが4本、湖西線のトンネルが2本と計6本のトンネルが京都と大津の間を貫いています。
一番南側の2本が大正時代に竣工した、この中で一番古いトンネル。
この二つのトンネルには、いずれも「扁額」があります。鉄道院副総裁古川阪次郎によるものだそうですが、トンネルを掘るというのは、一台事業だったんですね。
南側には「夷険泰否」、北側には「其益无方」と読むようですが、意味はわかりません。
あと、東海道線の上り線にこんなコンクリートの構造物があります。
けっこう古そうで、いったい何のために作られものなのか、ずっと以前から気になっています。
どなたか、これが何なのかお分かりの方はいらっしゃらないでしょうかね…