海北友松展 [日記]
4月11日から5月22日まで開催されていた京博での『海北友松展』。
僕はGWの5月3日に行ってきました。
この日は京都駅から京博まで歩いて行きました。感覚的には離れているのですが、七条通りをひたすら東へ歩き、15分もかかりません。
虎形 琳丿丞くんことトラりんはこの日も来場者サービス。
さて、海北友松は桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師。建仁寺方丈が再興される際、二頭の巨龍を描いた「雲龍図」が有名ですが、狩野永徳や長谷川等伯に比べると、少しマイナーな印象があります。
海北友松は60代以降に本格的に活動をはじめたこともあり、その生涯はまだまだわからないことが多いようです。海北家は元々は近江の浅井氏に仕えた武家でしたが、小谷城が信長により落城したさいに父親が討死。幼少の友松は東福寺に預けられそこで絵の才能を見出されて狩野元信に学んだというのが定説だそうです。
東福寺で絵を描きながら、禅を学び、お茶をたしなみ、公家とも交流しする中で、41歳で還俗。武士として刀を持つことはなかったようですが、生涯武士としてのプライドを強く持っていたようです。音声ガイドの冒頭に「自分は画家に成り下がってしまった」という言葉があり、この武士のプライドこそが、彼を理解するキーワードとも言えるのではないでしょうか。
親友は明智光秀の臣下の斎藤利三。本能寺の変ののち、謀反人として粟田口で晒されていた彼の遺骸を友松は奪い取り、真如堂へ運び手厚く葬ったという話もあるそうです。真偽はともかく、利三の娘の春日局からは友松の子が褒賞されたといいますから、それに近いことはあったのでしょうね。
茶人の東陽坊長盛ら一流の文化人との交流を通じて、石田三成や安国寺恵瓊らの武人達にも知己を拡げましたが、彼らもやがて関ヶ原で戦死します。父、利三らの武士としての壮絶な死を見てきた友松には、自分に流れる武家の血を誇りに思いつつ、絵師として生きる道にコンプレックスを感じていたのかもしれません。
海北友松が亡くなったのは慶長20年(1615)で83歳という長命で、浅井長政の滅亡から徳川の治世までを生き抜いた彼の絵を一同に見ることのできる、そして彼の心情までが伝わってくるような、さすが国立京都博物館といった、たいへん壮大な企画展でした。
その帰り道、すぐ近く、七条鞘町通角の、IL ZaccaYa(イルザッカヤ)さんでランチをいただきました。
パスタやカレー、アラカルトメニューの他に、コーヒーやスイーツ、そしていろんなお酒まで揃っていて、なんだか楽しそうなお店。
欧米からの観光客の方がビールやワインを飲みながらお話しされている、そんな日本じゃないような雰囲気も…。
夜はバールの雰囲気になるのかな… 近くにこういうお店があると、通ってしまいそうです。
そしてパスタも美味しそう! 京博に行く時には必ず立ち寄る、そんなお店になりそうです!
ケチャップの色食欲そそります。
by JUNKO (2017-06-02 17:19)