日清講和記念館 [日記]
亀山八幡宮から赤間神社方面に歩いていると、こんな案内がありました。江戸時代、対馬から壱岐を経た朝鮮通信使は、ここから瀬戸内海を経て京都、江戸へ向かったようですね。下関はまさに日本の玄関口だったのですね…。
鞆の浦や牛窓で朝鮮通信使の資料はいろいろ見ましたが、まだまだ断片的にしか知らないので、何か本でも読んでみようかと思っています。
ここから少し唐戸川に戻った山側に旅館と思われる建物がありました。
伊藤博文の命名により創業したという春帆楼(しゅんぱんろう)という割烹旅館。。明治21年には伊藤により解禁となった、”ふく”料理の公許第一号店となったそうです。
春帆楼さんの敷地にあるこの建物は日清講和記念館。日清戦争の講和条約である下関条約の交渉は春帆楼さんで行われ、その当時の様子などがここで展示されています。
下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示できる最適な場所であったからとのこと。僕も貨物船が狭い関門海峡を通過するのを見て迫力を感じましたが、同じように日本の軍船が通過する光景は、清国使節団には心理的な影響を与えたかもしれませんね。
内部には講和会議で使用された調度品や両国全権の伊藤博文、李鴻章の書などが展示されている他、講和会議の部屋を再現されていました。
門司もおもしろかったですが、下関もいろいろな歴史を感じられるところです。
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